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ミリタリーな戯言と独り言

軍事系戯言の坩堝
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2007/06/24
00:49
試作機の魔窟№.023 中島九七式艦上偵察機

「やっぱりいりません」
31316bb0.jpg日本海軍が運用した機種の中でおそらくもっとも幸の薄いのは艦上偵察機だろう、日本初の空母「鳳翔」に搭載された記念すべき一〇式トリオの一角である一〇式艦偵から海軍最速の駿馬「彩雲」に至るまで肝心の“空母”での運用がまったくされていないのだ。一〇式艦偵は元にされた一〇式艦攻で十分とされ、九〇式艦偵は急降下爆撃機の研究として極少数生産、二式艦偵は母艦もろともミッドウェーの藻屑と消え彩雲に関しては空母そのものがなくなっていた。ただ、これらの偵察機たちは空母には載らなくても一〇式は海軍初の艦上偵察機で練習機としても使われたし九〇式は急降下爆撃機開発の役に立ったに二式はそもそも彗星の開発上に生まれた派生型だし彩雲は空母がなくとも陸上偵察機としてがんばってくれた。がしかし、これらの“役に立った”もしくは“そこそこ役に立った”連中とは違い役に立たなかった上に存在意義さえ怪しい艦偵がいた、それが九七式艦上偵察機だ。

この九七式艦上偵察機(十試艦上偵察機)はそもそも同時期に中島と三菱の十試艦上攻撃機(後の九七式艦攻)開発時に海軍が中島に特命で作らせたもので、実はこの当時海軍には長距離偵察に使える高性能な偵察機がなくて陸軍の九七式司令部偵察機の民間機型を改造しての導入及び十試艦攻開発に伴って中島に開発させた。ただ、当たり前なのだが中島は十試艦攻の開発で忙しい、実はこの当時の海軍艦攻は中島と三菱が試作しては共々不採用通知を喰らう、を繰り返してた暗黒期でしかもまだ艦攻を採用されていなかった中島としてはなんとしても採用されたかったわけだ。こので十試艦偵は十試艦攻の設計を流用して平行開発を行うことにして完成した機体は固定脚でサイズが一回り小さい意外は九七式1号艦攻そっくりで性能は固定脚だが軽くて小さい分性能は上だったけど、そもそも新機軸をたくさん使った九七式艦攻自体が高性能で偵察機としても使えることが分かって採用はされたものの生産は試作された2機だけで一〇式艦偵、と言うよりはライバルだった三菱の九七式2号艦攻と似たような理由で本格的には使われなかったわけだ。性能自体は良かったから結局中国大陸に送られて細々と使われたんだがそもそもこの偵察機必要だったんだろうか?どうにも開発時期と会社を間違えてて気がする

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2007/06/20
01:32
試作機の魔窟№.022 愛知十七試攻撃機「晴嵐」M6A1

世界初(で最後)、潜水艦艦載特攻機!
731af0c8.jpg潜水空母、それは漢の浪漫!エ○スコンバットだったりフル○パニックだったりと人気者なのだが意外と実用性が低い話はまぁまたそのうちということにして、よくも悪くも日本はヒコーキを乗せた潜水艦を実際にちゃんと使った最初で最後の軍隊で、その前にも米英独仏なんかでも実験して結局実用化できずじまいであきらめたのを日本海軍はコツコツがんばっていたってことだ。よく考えると酸素魚雷だったり下瀬火薬だったり日本軍はこの手の”欧米で見捨てられたモノ”を使うのが好きだよなぁ。
さて、話を本題に移しましょう。そもそも何で潜水艦に飛行機を載せる必要があるのかと言うと潜水艦の任務には通商破壊のほかにも隠密性を活かした偵察任務もあって実際に日本の伊30はアフリカ東海岸の英軍基地を偵察してたりするわけなんだがことときはもちろん搭載していた零式小型偵察機を使っている。そもそも潜水艦のブリッジは水の抵抗を避けるためになるたけ低くされてて水上艦に比べて見渡せる範囲が狭いのだ。それで偵察、索敵のために小型偵察機を搭載したわけなんだがいかんせん潜水艦の中は狭い、だから乗せる偵察機も小型化優先で潜水艦に乗せれる以外では何の取り得もないような低性能なわけだから当然攻撃任務なんかは全然考えていないわけだ。そこで水上攻撃機2機を搭載した超大型の攻撃専門潜水艦「伊四〇〇型」(特型潜水艦)を作ろうということになった。ちなみに巨人・大鵬・玉子焼きではないが日本海軍は大和・信濃・四〇〇型と実戦投入された中では軍艦トップ3共々世界最大だった、ちなみに戦中にもっとも活躍していなくて有名な軍艦でもあるんだが・・・。それでこの巨大潜水艦に載せる攻撃機には最初艦上爆撃機「彗星」にフロートを付けようとしたそうなんだが構造上の問題からあきらめたらしい、この辺の話はあまり詳しく分からないんだがそもそも彗星の主翼が空母のエレベーターギリギリのサイズで折り畳み装置がなかったからその辺の関係で潜水艦の格納庫にしまうのに無理があったんじゃないだろうか?それで海軍は彗星の生産をしていた愛知に彗星を参考に潜水艦搭載の水上攻撃機を設計させた。このときの名前が十七試攻撃機なのだが勘というか知識のある人ならピンとくるかもしれないのだが実は『日本が大戦中に実用化した最後の軍用機~』と言われる彩雲も十七試、ちなみに対潜哨戒機「東海」も十七試で『日本が大戦中に実用化した最後の軍用機彩雲』は真っ赤な嘘なのだ。ちなみに彩雲のくだりにはまだ続きがあるのだがそれはまたの機会に

それで愛知は何とか最初の試作機を完成させてこれは彗星の脚を流用した実験機「南山」(晴嵐改)と呼ばれて後でフロート付きのができると晴嵐と名づけられたらしい、晴嵐は主翼付け根部分から90度回してから後方に折り畳めてフロート別に格納できて、魚雷か八〇番爆弾までを搭載できた。載せるべき特型潜水艦の建艦数が減ったりして搭載機を3機にしたりして昭和20年8月末にパナマ運河攻撃を計画していたけど7月中旬に目標をもっと手近で直接的な効果のあるウルシーに変更して途中で終戦を迎えている。生産台数28機と機種と生産次期からかなり少なく実は晴嵐は終戦まで試作機扱いで制式採用はされていなかったらしい、まあ時代背景を考えれば仕方が無いのかもしれない

2007/06/09
04:17
試作機の魔窟№.021 メッサーシュミットMe163コメート(後日ちょい補充版)

彗星堕つ!
f65abd42.jpgコメートと言えば実戦に参加したのじゃ世界最初で最後のロケット戦闘機(そういえば日本の桜花は世界最初で最後のロケット攻撃機なのか?)
そもそもコメートは無尾翼、デルタ翼機を熱心に研究していたリピッシュ博士がロケットの研究者フリッツ・フォン・オペルに「(当時リピッシュ博士が実験していた)無尾翼グライダーにロケットを搭載してみないか?」と言われたのが始まりでそれ以降改良を繰り返して完成したのがロケット迎撃戦闘機Me163コメートというわけだ。
コメートは大戦で使われた航空機としては最速の最高速度950キロで武装は30ミリ機関砲二門(ちなみに初期型は20ミリ二門です)上昇速度も無茶苦茶速い、つまりルフトバッフェの構想じゃ爆撃機が来たらバビューンと上がってダダダッと撃ってボカーンと迎撃してやろうという構想だった。まあ実際そんなにうまくいかなかったのは周知の事実でまず航続距離が短い、ひたすら短い、Bf109が霞んで見えるほど短い!なにせ最大8分しか飛べないから爆撃機が来てもよっぽどうまくタイミングをあわせないと捕捉できないホンマモンの局地戦闘機で捕捉しても相対速度が速すぎて射程がなくて発射速度の遅い30ミリ機関砲はマジで“当たらなければ意味は無い”ってな具合で機体がちっこいからスペースの関係上人体とかをものすごい勢いで溶かす燃料のタンクがパイロットの両脇にあったりして性能の割には戦果が出なくて被害ばっか出てきててしかもこれはまだ序の口、タイヤを収納するスペースがないからタイヤは離陸したら投棄してソリで着陸することになっていたけどミスれば確実に大事故でさらにその投棄するタイヤには緩衝材が無かったから滑走路を走ってて振動でボカンと行くことも多数でおまけにロケットの排気で滑走路がすぐダメになるから特殊コーティングをしてやらにゃならなくて安易にほかの基地に部隊を展開できなくて配備された基地を避けられると文字通り手も足を出なかった。結局いろいろ改修したMe263も作られたけど終戦を迎えて日本で秋水という似て非なる兄弟も作られたものの諸事情で試験飛行で墜落してもうロケット戦闘機はおしまい、終戦直後に初期のジェットエンジンの性能が低かったからそれをカバーできるロケット・ジェットを併用した戦闘機を各国が作ろうとしたけど主に上の事情で失敗してMe163から学ぶことはエンジンとはあんまり関係ない全翼形状くらいしかないんじゃないのか?

2007/05/25
20:41
試作機の魔窟№.020 ユンカースJu87スツーカ

第二次大戦皆勤賞急降下爆撃機
c78f6f47.jpg




第二次大戦全期間を通して使われた急降下爆撃機で日米海軍の急降下爆撃機が機体を更新してずっこけた一方ドイツは後継機の開発自体でずっこけてしまったわけで結局バトルオブブリテンあたりから旧式化したJu87が老体にムチ打ってがっうばったわけだ。

で、ここから少し陸の話になるのだがそもそも緒戦でドイツ軍が大勝利を収めた電撃戦を極簡単に言うと機甲部隊と機械化歩兵の機動力で敵のテンポを乱して大混乱している間に攻め落とすことだったんだが支援に使う重砲はまだトラックに引っ張ってもらっていたから味方の進軍に付いて行けなかったわけだ。そこでピンポイント爆撃でその代わりをさせようと言うことで、つまり「空の砲兵」ということだ。まあ、それと同時にドイツ軍がアメリカの急降下爆撃機ヘルダイバー(初代)に感動したらしくて急降下爆撃機一点張りになったのもあるんだろうけどな。ただ、作ろうとはしたもののベルサイユ条約で軍用機開発が禁止されてたのとドイツは急降下爆撃機なんて作ったことないからひとまずすぐに実用化できる機体を作りつつ近代的な機体も作ることにした。そんでまず堅実なHs123を採用しながら次期急降下爆撃機の試作をさせてその中で一番の有力候補だったのがユンカースのJu87とハインケルのHe118(元He113)でJu87の試作1号機(いわゆるV1ね)は搭載予定のJumo210Aが間に合わなくて英国製のロールスロイス・ケストレルを搭載していて双垂直尾翼に2枚の木製ペラで排気管も集合式で風防なんかの形も微妙に違っていて外見はV2以降の試作機とか生産型とだいぶちがっていた。ちなみにこのV1はフラッターで右垂直尾翼が吹き飛んでそのまま墜落していて、その結果単垂直尾翼にされたわけで他の試作機との比較審査ではJumo210Aaを積んで垂直尾翼を改めたV2が出てそれをさらに改良したV3は予備機とされたんだそうだ。それでHe118は発展性があって速度もJu87より70キロばかし速かったものの第一次大戦のエースで技術局長だったウーデットがHe118のパイロットにやる気がないと思って自ら操縦して注意があったのにプロペラピッチの調節を忘れて急降下した結果猛烈な勢いでペラが逆回転してギアボックスごと、つでに尾部も吹っ飛んでそのまま操縦不能で墜落してしまった。ちなみにウーデットはなんとかパラシュートで脱出して無事、あー死ぬかと思った。まあ自分が悪いんだが
結果特に問題もなく要求性能も満たしてたJu87が採用されたんだが最初の生産型だったAシリーズは発動機の馬力不足で速度とか爆弾搭搭載量が低くてちゃんとした“スツーカ”は出力が300hp近く高いJumo211に換装したBシリーズ以降でそれ以来雷撃機にしたり艦載機にしたり対戦車攻撃機にしたり夜間爆撃機にしたり簡易輸送機(試作止まり)にしたりして後継機開発とか主脚を折りたたみ式にしたJu87F(後でJu187に改名)が失敗したからイロイロいじり倒されて戦争のかなり早い段階で旧式化してたけど44年10月まで生産されてメッサー(Bf109)ハインケル(He111)にならんで良き日のルフトバッフェの代名詞になってたわけだ、その時点では見る影もないが
実は同盟国日本にもJu87A2が2機輸入されたのだが運動性、操縦性、安定性共に意外と評価が高くて特に運動性は隼に多少劣る程度だったそうでだ。

2007/05/19
07:54
試作機の魔窟№.019 ノースロップP‐61ブラックウィドウ

黒いが幸は薄い
XP-61.jpg





欧州の空の戦いが激しくなり、ドイツとエゲレスはそれぞれの首都を爆撃しようとしたんだが真昼間に行けば対空砲火と戦闘機にボコボコにされるのは当たり前なもんだから戦闘機と対空砲火の脅威の少ない夜に爆撃をしようと考えたのはトーゼンの結果でもあり、ドイツはお荷物扱いされてたBf110ともともと急降下爆撃機として設計されたDo17とかJu88のおかげで夜間戦闘機には事足りなかったが、イギリスのほうはと言うとブレニムとかバトルオブブリテンで大損害を出してから引っ込めたディファアントだとか単発のハリケーンだとかかなりしょぼいラインナップだった。で、その戦いを大西洋を挟んだ向こう側で見ていたアメリカはこれからの戦いはっ夜戦機が重要だってのとそれを作れば英国がたくさん買ってくれそうだって商売っ気ムンムンな考えが浮かび1社特命でまだ出来て1年くらいしかしてないノースロップに作らせることにした。なにぶん夜戦機なんてアメリカは作ったことがないし持ってもいなかったから構想にはずいぶん悩んだのかはしらないがドイツ軍爆撃機を一撃で撃滅できる火力と長い滑空時間、それから強力なレーダーを装備することで決まって、完成した機体は双胴双発で20ミリ機関砲四門と12.7ミリ四連装リモコン1旋回機銃と機首にレドームに収納したディッシュドアンテナを装備する豪華な夜間戦闘機にしあがった・・・カタログ上では。このP-61はどうも幸が薄いようで第一の問題が背部の旋回機銃で回したり機銃を動かすと気流が乱れて振動を起こしたから初期型では固定してしまった。しかも振動問題が解決できなかったのとB-29の前部銃座もこれと同じだったせいで供給がB-29に優先されて撤去されたりもした。さらに重武装と初期の真空管を多用したレーダーのおかげで重量がハンパなく重くなり2000馬力級発動機を搭載した双発機でありながら最高速度は600キロを切らない程度で上昇力も低い鈍足な機体になっているし最大問題は就任した頃にはボーファイターだったりモスキートみたいなしっかりした夜戦機がいて英国はもちろん母国アメリカもそれを使っていたからなんだか必要性が薄くなって「別に採用しなくてもいいんじゃないか?」という流れもあったけど比較試験でゴネたおかげでなんとか採用された。そなんこんなでなんとか採用されて44年5月から配備も進められたものの当時残ってたのは虫の息状態のドイツ&日本でしかも本格的に使われたときにはドイツはもう降伏が秒読み段階だったから極東戦線の南島で使われたが日本も夜間に単機か数機でいやがらせ程度の爆撃をするだけだったからそのほかの米戦闘機のような武勇伝や逸話もなく終戦を迎え、排気タービンを装備したC型と偵察機型のF-15レポーターは少数生産に終わりB-29の長距離護衛用のD型はP-82ツインマスタング(ムスタング)との競争に負けて生産されなかった。最後までトホホな飛行機なのだが第二次大戦以降は夜間戦闘機は全天候機の枠に一括りにされたからこんなんでも米国最初で最後の専用夜間戦闘機なんだろうな